大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和40年(う)2319号 判決

被告人 浜田正喜

〔抄 録〕

弁護人の論旨は、要するに、原判決は経験法則に違背し、証人矢貝昭治の記憶に基づく供述を採用せず、記憶に反し検証立会いの際に経験したところによつて目撃場所を変更するなどした虚偽の供述を採用した結果、事実を誤認したものであつて、元来被告人は無罪である。これを有罪とした原判決には判決に影響をおよぼすことの明らかな事実の誤認があり、破棄を免れないというのであり、被告人の論旨は、右証人矢貝の供述は公判毎に変り信用することができず、本件は被告人の勤務先会社および警察がデツチ上げたものであつて、被告人は無罪であるというのである。

よつて原判決挙示の証拠を記録について調査すると、それらの証拠に徴すれば、一見判示事実、即ち、被告人が原判示日時頃原判示電柱に掲示してあつた原判示選挙における立候補者内藤知周の選挙運動用ポスター二枚を擅に剥ぎ取り、不正の方法をもつて選挙の自由を妨害した事実を肯認し得るものの如くである。しかし更に記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも勘案して検討すると、右事実を肯認するには未だ疑いを挾む余地なしとしないのであつて、右の点について直ちに被告人を有罪と認めるにはいささか躇躊せざるを得ない。以下これを詳述すると、先ず、原判決が判示事実を認定し被告人を有罪とするに至つたのは、要するに、矢貝昭治が原判示日時頃原判示第二六号、第二七号電柱に掲示してあつた原判示ポスターを剥ぎ取つている一人の男を目撃したこと、右矢貝の認めたその男の服装、乗車していたオートバイは、矢貝がその直前付近道路上において街灯の照明の下に見かけた被告人の服装、手をかけていたオートバイに似ていたことから、矢貝の判断のとおりその男は被告人であると推定されること、検証の結果夜間矢貝の目撃地点からその男の行動、服装等を見分けることができると認められることなどによるものであることが窺われる。成程、証人矢貝昭治の原審および当審公判における供述、原審の同証人に対する尋問調書、証人渡辺潔次の原審公判における供述、同人作成の答申書(但し、取り調べない部分を除く)、司法警察員作成の実況見分調書(右同)によると、原判示ポスターは本件の前日頃には原判示電柱に掲示されていたのに、原判示日時頃右電柱のある都道第一〇号線(通称高幡街道)を矢貝が追尾したオートバイに乗つた一人の男が通行した後、少くともその翌朝には既に剥ぎ取られていた事実を認めることができる。そして、右の男が何者であつたかという点について、矢貝は、同人が暫らく追尾し最後に至つて確認したその男の服装および乗物、即ち着用していたジヤンバー、飛行帽様のもの、乗車していたオートバイの型(スーパーカブ)がその直前付近道路上において見かけた被告人の服装および乗物に似ており、またその男の格好が予て知つていた被告人に似ていたから、その男を被告人と思つたというのであるが、しかし同時に矢貝の供述によつて認められる当時のその周辺は夜間非常に暗く、人物等の見極めが頻る困難であつたこと、矢貝はその際その男をほぼ背後から懐中電灯を照らして僅かの間見たに過ぎず、もとよりその男の顔を確認したわけではないこと、しかも前記のとおりその直前付近道路上において被告人を見かけていたため、追尾した当初からその男を被告人ではないかとの予断をもつていたところから、ついにはその男を被告人であると断定するに至つたのではないかとの疑念を払拭し得ないこと、なお、矢貝がその直前付近道路上において被告人を見かけた際、被告人のほかに被告人より背が高いが同様オートバイを持つた一名の男がいたのを現認していることなどを併せ考えると、矢貝のその際における認識は同人の供述するとおりであつたとしても、同人に全く誤認がなかつたとは保し難く、右同人の供述から直ちにその男が被告人であつたと即断するのはいささか早計のそしりを免れない。更に、その男が原判示ポスターを剥ぎ取つたという点について、矢貝は、その男が原判示電柱に寄り添い手を上下したのを目撃し、次いで右電柱の傍らに行つて見ると下に破かれた原判示ポスターが落ちていたので、その際その男が右ポスターを剥ぎ取つたものと思つたというのであるが、証人矢貝の原審および当審公判における供述、前記同証人に対する尋問調書、昭和三九年六月一五日夜実施の原審検証調書、前記実況見分調書および証人高橋信一の原審公判における供述を併せ考察すると、右検証では、矢貝が目撃場所として指示した地点から実験人物を配した原判示第二六号電柱を見ると、人がいると意識して見れば人影は辛うじて分かるが、人物の容貌、風采、服装等は全く見分けられず、手を上下させると或る程度分かるが明瞭ではなく、また、同様第二七号電柱を見ても、人物の六割方は分かるが下半分の輪廓は注意しないと分からず、服装、性別等に至つては全く見分けられず、手を上下させると手を動かしているらしいことは微かに分かるが、動作は分からないというのであり(なお、右検証は事件当夜と同じ時季、時刻、著しい差異のない天候、明るさ―昭和三八年一一月一一日実施の原審検証調書、証人山本満雄の原審公判における供述によると、右第二六号、第二七号電柱付近にある照明としては第二七号電柱より一二メートル先方、道路反対側に螢光灯一灯があるだけであり、右螢光灯は昭和三七年二月二七日頃設置されたが、翌三八年一二月二四日頃取り換えられていることが認められる―のもとに行われたのであつて、本件当夜と検証時の明るさに格別の差異があつたものとは認められない。)、しかも矢貝はその男が第二六号電柱の手前にある第二二号電柱では何かを貼るような動作をし、第二七号電柱の先方にある第二八号電柱では手を上下したのを見たというのであるが、前記検証の結果によると矢貝の指示した各目撃地点からはいずれも人影すら容易に認めることができなかつたことを考え併せると、本件第二六号、第二七号電柱の下におけるその男の行動につき矢貝に全く誤認がなかつたとは断定し難く、なお、矢貝は現実にその男がポスターを剥ぎ取つているのを目撃したのではないこと、矢貝は前記第二二号電柱先方の選挙用ポスター掲示板には被告人が立ち寄るのを認めなかつたというのであるが、同所に掲示されていた前記内藤のポスターが一部剥ぎ取られており、次の第二三号電柱にはその男が根元付近に立つたというのであるが、同所においては何らポスターが破られた形跡がなく、更にその先方の第二三号乙電柱にはその男が立ち寄つたのを認めないというのであるが、同所に掲示されていた右内藤のポスターが破かれていたこと、本件当夜以前にも本件場所附近において同様の手口で選挙用ポスターが破かれた事実のあること、更にその翌朝即ち昭和三七年六月一五日午前九時に行われた実況見分の際には、本件第二七号電柱の原判示ポスターが剥ぎ取られた個所に原判示選挙全国区立候補者岩間正男(被告人は同候補者の選挙運動をしていたものである)のポスターが掲示されていたことなどを併せ考えると、その男がその際原判示ポスターを剥ぎ取つたということ自体にも疑いを容れる余地なしとしないのであつて、以上を要するに原判決において有罪と認めた公訴事実についてもこれを肯定するには未だ十分の心証を形成するには足りないものといわなければならない。さすれば原判決の認定した本件公訴事実はその証明が十分でなく、被告人は無罪である。

(松本 海部 石渡)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!